奥八女焚火の森キャンプフィールドがある、福岡県八女市黒木町笠原は
八女茶が生まれた場所「八女茶発祥の地」です。
八女地方に、お茶の木の栽培のしかたとお茶の製法を一番初めに伝えたのが「周瑞和尚」
八女がお茶どころとして有名になるまでの物語をおとどけいたします。
1405年、秋。日本は室町時代のある日…
修行のため、出羽国(今の山形県と秋田県あたり)から、明(今の中国)へ留学していた
周瑞和尚(しゅうずいおしょう)は、船で博多まで帰ってきました。
明で修行をしたことをもとに、さらに修行を積み、もっとりっぱな人間になるための
場所を求めて筑後の各地を歩いていたところ…
深い谷間に迫った山々が一面みごとに紅葉に染まり、山肌には数十メートルほどもある
珍しい岩がそびえたっている笠原のすばらしい景色に足をとめました。
周瑞和尚は、明の蘇州によく似た、この笠原の地形に心うばわれ
「よし、ここで修行をしよう。」と、心に決めたのでした。
笠原の地を選んだその日より、周瑞和尚の修行は始まりました。
絶壁の大きな座禅岩の上で、雨の日も風の日も、一心に座り続けたのです。
見知らぬお坊さんが、毎日毎日、岩の上で座禅をしているということが、
村人たちのウワサになりました。
最初はひかえめで話をすることもなかった村人たちも、次第に打ち解け、
色々な話をするようになり、村人たちのことを自分のことのように思ってくれる
周瑞和尚のあたたかい言葉と思いやりの心が、みんなの間へ伝わっていったのです。
なかでも、庄屋の松尾太郎五郎久家は、周瑞和尚を心から尊敬していました。
周瑞和尚がこの村に来てから、村全体が明るくなり、みんなの心の支えとなって
いることを伝え、いつまでもこの村にいてほしいと、心を込めてお願いしたのです。
そして、周瑞和尚のために霊巌寺が建てられました。
周瑞和尚が笠原に来てから5年の月日が経ったある5月の日、ツバキによく似た木の葉を
むしり取っている周瑞和尚のところへ、久家がやってきました。
「葉を摘み取って火にあぶり、乾かしたものに湯を注ぐと香りの良い飲み物になる。
この飲み物は薬にもなるし、体に良いのでみんなに飲んでもらおうと思ってね。」
周瑞和尚が明から持ち帰ったお茶の実を蒔いていたところ、
りっぱなお茶の木に育っていたのです。
摘み取ったお茶の葉を、久家は周瑞和尚の指示にしたがい、大きな釜であぶり
むしろの上に広げてゴシゴシもみ、そして乾かし、もう一度火にあぶりました。
こうして出来上がったお茶にお湯を注いだものを飲んだ久家は、
あまりの美味しさにとても驚きました。
「うーん、あまい!あんな葉っぱからこんなにも美味しい飲み物ができるとは!」
久家は、自分もぜひお茶を栽培したいと思い、周瑞和尚が育てた
お茶の木の実を分けてもらい、教えられた通りに畑へ蒔きました。
1年、2年と順調に育ち、3年目の10月には白い花が。
そして次の年にはたくさんのお茶の実がみのりました。
とても喜んだ久家は、お茶の実をにぎりしめ周瑞和尚のもとへ駆けつけます。
「和尚さん!お茶の実がお茶畑にたくさんみのりました!」
周瑞和尚と久家は手を取り合って喜び、
お茶づくりを村人たちに教えることを誓い合ったのです。
こうして始まったお茶づくりは久家から村人たちへ、
さらには村人たちがとなり村へと、どんどん広まっていきました。
どの村でも、人々はよいお茶づくりを工夫し、互いに教え合っていきました。
このようにして笠原からはじまった八女のお茶づくりは盛んになっていったのです。
この後も、お茶づくりの工夫と協力が続けられ、
周瑞和尚と久家がお茶づくりをはじめてから約300年後の
江戸時代中期、天明のころには、「茶は八女、八女といえば茶」と言われるくらい
日本を代表するほどのお茶どころとなっていったのでした。
茶つみの歌に歌われている「八十八夜」というのは、
立春(2月4日ごろ)から数えて88日目の5月1日〜2日ごろを言います。
この時期が、当時お茶を摘むのにふさわしい頃と言われ、
八十八夜に行われる献茶祭には、周瑞和尚への感謝の気持ちを込めて、
太郎五郎久家の子孫の方が、霊巌寺に新茶を奉納されています。
おしまい